天道がよくわかる本

46 本性と魂魄

魂の成長のために


 私たちの本性、すなわち元なる心はさまよりの分け御霊であり、なんの汚れもない純真な霊性を持って光り輝いています。理天より来た如くの霊という意味から、如来性や仏、すなわちの心という意味で仏性とも言います。
 しかし、霊がこの輪廻の世界に降ろされてより約六万年、その霊性は曇り、その霊光はそれぞれの霊によって大きな違いが生じてしまいました。本性は全ての霊が等しく純真であるのに関わらず、どうしてこのような違いが生じたのでしょうか。
 それは霊がこの世で修行するために魂魄という修行の道具が与えられているからです。霊の修行の場は三界、すなわち気天、地獄、象天(この世)ですが、気天も地獄もこの世(象天)での象(かたち)を借りて行なわれています。特に人はその一生の中で多くの霊の拠り代として、ご先祖の代表としてこの世で修行しています。象がなければ罪も作らない代わりに徳も積めないのです。
 「魂魄この世に留まりて怨みはらさでおくべきか。」これは有名な四谷怪談の中のセリフですが、この魂魄とは人の欲心です。どちらも鬼という字が入っているように、邪悪に染められた心であって、人間の呼吸に支えられて存在するものです。魂は肝臓にあり、人間の生死と共に肉体につき、また離れます。魄は肺にあり、人が生まれて七×七=四十九日にて備わり、死んで七×七=四十九日で消え去ると言われています。恋煩いにて胸がキューンと痛くなるのは魂魄の影響だと言われています。
ではなぜこの魂魄が人に備わっているのでしょうか。

① それは肉体を維持するために必要だからです。欲がなければ人は食事をすることも寝ることもなく肉体を維持できません。たとえて言うならば、水中で活動するのに酸素ボンベが必要なように、この現象世界において本性が肉体に入ると同時に肉体を維持するための欲心(魂魄)が備わるのです。
② この世(三界)は霊の修行のために創られました。霊が逍遥自在である理天では、霊を鍛え成長させることができないからです。たとえて言うならば鉄アレーを持って筋力アップを図るようなものです。何の負荷も加わらなければ筋力はどんどん衰えてしまいます。人が向上しようとするのも欲心があればこそです。本性に魂魄という負荷がかかることによって霊はより成長します。

 以上の二つが魂魄の存在する大きな理由ですが、しかしこの魂魄のために人は心を汚してしまいます。本来の霊の光が太陽のようものであるとすれば、魂魄はそれを覆う雲のような存在であり、純真な本性は曇り、霊光は遮られます。
 この霊の曇りを掃い霊の成長を図るのが本来の目的です。肉体を維持するための最低の欲は必要であっても、それ以上の欲は己れのためではなく、全て霊を救いたいという大欲としなければならないと神仏は説かれます。
 魂魄は本性とは不可分の密接な関係にあるものなので、魂魄(欲心)は滅し切ることはできません。滅するのではなく、如何にコントロールできるかが大切なのです。


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