天道がよくわかる本

51 体の中の気のめぐり

  守玄の極意

 生きている人と、死んでしまった人の肉体はどこが違うのでしょうか。それは気(生気)がみなぎっているかいないか、霊を宿しているかいないかの違いでしょう。
 気は絶えず体内を巡り、肉体を動かします。その気の持ち方により気持ちとなって表情や言葉にも表れてきます。また、気が滞り、病めば病気となり、気を強く持てば気迫となり活気となって表れます。
 この気の巡る道筋を経絡と言い、体の隅々まで張り巡らされています。特に大きな経絡は任脈、督脈と呼ばれるものです。任脈は舌先から始まり、中丹田(胃のあたり)、下丹田(下腹部)を通って尾閭関の手前、すなわち肛門付近まで繋がります。そして督脈は肛門の先、尾てい骨付近から始まり背筋に沿って、夾脊関、玉枕関と呼ばれる関門を通って崑崙頂(頭頂部)に至り、そこより降って上あごのところで終わります。この道筋か気の幹線、大動脈にあたるものであり、そこから様々に枝分かれして、各ツボなど、全身に張り巡らされています。通常この気は、手のひらや足の裏などから多く外へと抜けてしまいます。そこで、仏像(坐像)、座禅やヨーガなどに見られる結跏趺坐のように、足の裏や手のひらを自分の方に向けて再び気を体内に戻そうとします。
 本来の気の巡りは、玄関より先天の気(理天よりのエネルギー)を入れ、後天の気(呼吸)と共に体内を周回させるのが理想的なのですが、得道していない人は玄関(理天への門戸)が開いていないため、後天の気のみを廻すこととなります。そのため本来の妙味、妙智慧を得ることができません。それでも瞑想することは肉体や精神を活性化させるのに大変良いことです。しかし呼吸とは魂魄(己れの欲心)の働きですから、誤ったやり方をすれば、異常な欲求に繋がったり、精神に異常をきたすなどの危険も伴います。
 大切なことは先ず玄関を開けることです。そして玄関が開かれたならば、そこに意識を集中することです。それにより理天よりのエネルギーを得ることができます。玄関より発生した気は、その大半が顔の骨格に沿って眼の外側を二つに分かれて通ります。そして残りのわずかの気が鼻筋を通って下に降ります。その気の通り道に二つの眼を入れば、顔の真ん中にの文字が描かれる形になります。
 次に鼻の下まで降りた気は、一旦このの文字の部分(眼の回り)にダムの如く貯えられ、そこから下へと流されます。このとき督脈と任脈の切れ目を繋ぐものとして舌が重要な役割を果たします。舌先を天矯、上あごの歯の付根から少し上の辺りに付けます。これにより気は降り、呼吸による気と共に全身を巡ります。また、任脈と督脈のもう一つの切れ目である肛門も締めるつもりで行うと良いでしょう。
 以上のように先天の気と後天の気が合わさり体内を常に周回させ、心身共に神仏と一体となることを守玄といいます。この守玄は行住坐臥と言って、日常のあらゆるとき、立っていても座っていても横になっていてもできます。ですからこの守玄には「静の守玄」(静かに座して無になる。または内省する)と「動の守玄」(動いたり考えたり伝道したり行動しながら)があります。 守玄とはリラックスした状態でもあり、精神が研ぎ澄まされた状態(覚醒した状態)でもあります。特に朝目覚めたときなど、すぐさま玄関に気を集めればすっきりと目覚めることができます。また逆に眠りたいときなどは、足先や足の裏などに意識を持っていくと良いのです。時に守玄と称して寝てしまうことはありませんか。それは本当に玄関に意識が集中できてないときです。


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